Reading For Pleasure

読書日記、ときどき食日記

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あの夏、エデン・ロードで / グラント・ジャーキンス 

後味が悪い、イヤな気分になるミステリーを「イヤミス」というが、これは、湊かなえが『告白 』でブレークしたあたりから徐々に支持されだしたのではないだろうか。今ではひとつのジャンルとして確立した感もある。

来月の読書会は、そのイヤミスなのだ。なんたって、この本の帯には、「本年度のイヤミスNo.1!」というキャッチが踊っているのだ。
実はこれね、課題本に決める際には反対もあったのだ。横浜読書会は女性が多いので、心温まるハッピーエンドなお話の方が支持されるわけなのだ。
私もそういう類いは嫌いではないが、人間の負の部分には、怖いもの見たさ的な抗いがたい魅力があるの。厭なお話でしか得られないカタルシスがあるのもまた事実だ。
それに、やっぱり流行は押さえておきたい。ということで、半ば強引に決定してしまったのが本書だった。
やるなら、今でしょ!
at the end of road1

本書の舞台はアトランタ郊外の田舎町である。作者グラント・ジャーキンスのデビュー作でもある『いたって明解な殺人』 も、このアメリカ南部の街が舞台になっている。
物語は、ヤク中の37歳の女性が、自殺を遂げようとしているシーンから始まる。死の間際、彼女はある男の子のことを思い、自分の中にある固く醜いものと対決するのだった。
一転、時は1976年の夏に遡る。アメリカが建国200年を祝った年だ。
10歳の少年カイル・エドワーズは、エデン・ロード沿いの家に両親と二人の兄と三歳下の妹のグレースと暮らしていた。エデン・ロードは当時まだ未舗装で、車が通るたび赤い土埃が舞うくねくねとした道だったが、この道が少年カイルの世界の全てだった。それなりに幸福な毎日だった。
だが、あの夏、ここで起こったことが、後のカイルとグレースの人生を一変させてしまうことになるのだ。

その日、カイルはエデン・ロードを自転車で快走していたが、見通しの悪いカーブで危うく車と衝突しそうになる。車はカイルをよけようとして横転してしまう。
運転していた女性は、なんとか自力で車から這い出てきたものの、その顔には血で顔に網目模様ができるほどの怪我を負っていた。血がしたたる手をゾンビのように突き出して、彼女はカイルに助けを求めるのだが、怖くなったカイルはその場から逃げ出してしまうのだった。
あの女の人はどうなったのだろう?翌日、事故現場にいってみると、事故の痕跡はまったくなかった。横転した車も、大怪我をした女の人も消えていた。たぶん神様が彼を助けてくれたのだとカイルは思ったが、それは黒人の女性保安官補デイルが聞き込みにやってくるまでのことだった。デイルは、行方不明になった若い女性メロディを探していた。だが、カイル何も言えなかった。
一方、彼女は、メロディは生きていた。左足を鎖でポールにつながれて…
lynda-carter-wonder-woman.jpg

序盤部分だけでも、「イヤミスNo.1」のキャッチの所以がわかるだろう。しかもこの「イヤ度」は、目におぞましく、生理的に嫌悪感を抱かせるのだ。
実は、カイルとグレースの世界が一変してしまう前から、それらの「目におぞましいもの」たちは存在していた。彼らの周囲には、配管洗浄剤の誤飲で顔の下半分が爛れてしまった子供や、子供を四肢麻痺にしてしまった気性の荒い「牡牛のバディ」がおり、教会では牧師が目を血走らせよだれを垂らして地獄の業火の凄まじさを説いていた。そして、エデン・ロードのそばには右半身麻痺の「マヒ男」が住んでいたのだ。

子供からみた世界ということで、一瞬、マキャモンの『少年時代』を連想させるが、カイルの世界はコーリーみたいにはキラキラとしてはいない。そもそもカイルのエデン・ロードは、楽園の道ではなかったのだ。

1976年に流行したイーグルスのHotel Californiaを聞くことで、後にカイルはkの一連の事件を回想する。
この歌の主人公は、礼拝の鐘の音によって、トワイライトゾーンへと入り込んでしまったことを悟るのだが、カイルとグレースもまた、楽園と名のつくエデン・ロードによって、絶対的邪悪が存在する世界へと足を踏み入れることになるのだ。
作中、ジャーキンスはカイルの目を通じてかなり辛辣に教会での様子を風刺してもいる。
You can check out any time you like, but you can never leave
そしてHotel Californiaの歌詞のように、彼らはそこから逃れられなくなるのだ。

嫌厭感はここからが本番で、ページをめくるごとにいや増していく。
ただ、帯にあるように「最悪の結末」というわけでもないと思う。
でなければ、どうしてエピローグに「マーキュロ(赤チン)」とつけたりするだろう?


あの夏、エデン・ロードで (新潮文庫)あの夏、エデン・ロードで (新潮文庫)
(2013/01/28)
グラント ジャーキンス

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いたって明解な殺人 (新潮文庫)
いたって明解な殺人 (新潮文庫)
(2011/03/29)
グラント ジャーキンス


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category: クライム・警察・探偵・リーガル

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tag: 海外ミステリ  イヤミス  読書会 
2013/03/27 Wed. 18:03 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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村上春樹の新作と、ノーベル賞受賞のためには...? 

iseyamasakura.jpg村上春樹の新作のタイトルが公表された。『1Q84』の時と同じく、タイトルしか情報が与えられていない。
ここ最近の春樹の新刊にはお約束になってきた、最小限の情報しか与えない作戦は功を奏しているらしく、発売はまだ来月なのに、予約だけで既にAmazonではランキング2位になっている(3月25日現在)
ただ、『1Q84』と違って、今回は色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』と、雄弁だ。

ところで、ちょっと以前に横浜市立大学のエクステンション講座で、『村上春樹は三島由紀夫の後継者なのか〜日本文学の現在と未来』というのを受講してきた。春樹が三島文学の後継者か否かについては、ちょっと横に置いておくが、講師の助川幸逸郎氏は、かなりマニアでディープな春樹研究者。PRESIDENT ONLINE でも「村上春樹になってはいけない」という連載をしていらっしゃるので、春樹ファンにはお馴染みかもしれない。→無料で読めます

彼は「春樹作品は、体験型アトラクションだ!」と言うのだが、そうそう、その通りなのだ。うまいこと言うなぁ。春樹作品は、その読み手によって感じるものが異なる。私の感想は私だけを反映するものであり、あなたのものはあなただけを反映している。私とあなたで同じということは、絶対ない。なぜなら、あなたと私は、別の人間なのだから。だから、春樹作品を語るのは、自分を語るということであり、かなり恥ずかしいものになる。ゆえに、絶対的普遍的な解答を求める人には、春樹作品は向かないのじゃないかと思う。

また、彼は、春樹がノーベル賞を受賞するためには「仏教的伝統とつながった作品を書く必要があるのではないか」と考察している。
今回のタイトルは、色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』だ。この「巡礼」って、(いわゆる日本的巡礼のことならば)ちょっと仏教色でてきてないですか?

nobel-prize.jpgところで、日本人で、過去ノーベル文学書を受賞したのは、川端康成と大江健三郎だけである。
ノーベル文学賞を非欧州圏の作家が受賞するためには、文章力云々は殆ど関係ない。どうせ翻訳されちゃうんだし、悪文で有名な大江健三郎の例をあげるまでもないが、大切なのは内容だけだ。
川端康成は、日本(美)をわかりやすく外国に紹介したことで評価され、大江健三郎は平和に貢献したことを評価されたとされている。また、昨年春樹を押しのけ受賞した中国の莫言などもそうだが、政治的イデオロギーを含む内容だと受賞しやすい。だが、概して春樹作品と政治的イデオロギーというのは、相容れない。
確かに、日本美も平和貢献も既に先人がやっちゃったとなると、ガイジン受けしそうな仏教的概念を盛り込むというのは、かなり有効な手なのかもしれない。
これで本年度、獲得できたとしたら、それを予言した助川センセイは本当にすごい。

が、現実的で世知辛いことを言えば、春樹個人の文学的努力云々よりも、こういう賞レースは、IOCとかと一緒で、ロビー活動とか、日本の国力自体の回復とかといった環境面のほかに、莫言の時みたいに、選考委員がその作品の翻訳者で、受賞すれば選考委員の資産状況は著しく上向く公算がある、などといった諸事情のほうが重要だったりもする...。

新作も楽しみですが、首尾良く"芥川賞を逃した村上春樹と、彼のノーベル文学賞受賞の年"となればいいですね。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
(2013/04/12)
村上 春樹

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category: 文芸

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tag: 村上春樹    ノーベル賞  仏教 
2013/03/25 Mon. 18:23 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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赦す人 / 大崎善生 

本書は、2011年に亡くなったSM小説の大家、団鬼六の評伝である。

私は(さすがに)「花と蛇」も読んだこともなく、晩年のめり込んだという将棋界に興味があるわけでもない。団鬼六という人の文章を読んだのは、晩年、文芸誌に掲載されていた短いエッセイくらいのものだ。だが、この人の評伝は読もうと思っていた。SM小説の金字塔を打ち立てた人の人生はどういうものだったのかに興味があったのだ。

彼は、亡くなる直前に入院していた病院の特別室で、この評伝のゲラを読み「僕の人生は、やっぱ面白いなぁ。」と言ったのだという。
そうなのだ。本当にあなたの人生は最高に面白い!
SMの大家、エロの伝道師と呼ばれた鬼六のイメージは、本書を読んで全く変わった。
momijisaka.jpg
鬼六は一時期ここ横浜に住んでいたことがある。
経済的にも一番いい時代だったのではないだろうか。紅葉坂を登り切ったあたりだろう。振り向けば、ランドマークタワーが大きく見える。
経済的な事情で、彼はこの鬼六御殿を追われる。没落の原因は、お金が入ってくる手段であるエロ小説の断筆を宣言し、将棋雑誌に有り金を全て持っていかれたことだ。
64歳にして借金2億。二番目の妻との間には就学に達したばかりの子供もいた。「アホか!」浜田山の借家の縁側で、鬼六は自分自身に低く唸る。

窮して夜逃げし、復活して栄華と浪費にあけくれる。そしてまた夜逃。鬼六の人生はその繰り返しだったが、それは、父親のとんでもない教育方針によるところも大きかったのではないか。
相場師だった鬼六の父親は、関西の豪邸街で一際立派な家を指しながら、「真面目にコツコツ働いたってこんな家は建たん。あれを手に入れるには相場しかない。」と滔々と息子に諭したとのだという。”一期は夢よ、ただ狂え”(『閑吟集』所詮、人生は夢よ。ただ面白おかしく遊び暮らせ)という父親の人生の詩は、鬼六に染みついてしまっていたのだ。
直木三十五の弟子だった母の紹介で純文学作家としてデビューするも、酒場経営や女や相場に手を出し、大借金を抱え、三浦へと逃亡をはかる。そこで最初の妻の世話により中学教師に納まるものの、いつしかその教壇の机でエロ小説を書き始めたという。こうしてSMの大家、団鬼六は産まれたのだった。
oniroku.jpg

著者は、鬼六の"夜逃げと栄華"のループを人生における縞模様の陰影だと表現する。光の時期があれば、必ず陰の季節が訪れ、しかしそのまま留まることなくまた光を取り戻す。這い上がるきっかけは、常に小説だ。
「私はね、書いた原稿はただの一枚も無駄にしたことはありまへん。すべて金になっています。」
小説家になりたくて、あらゆる本を読みまくったものの、いざ原稿を前にすると全く書けなかったという著者の大崎に対し、鬼六が言った言葉だ。
実際この通り、鬼六はどんなことも小説にしてきた。「新宿の殺し屋」といわれたアマ将棋の真剣師の裏切り、妻の不貞、最後の愛人の自殺…。そして小説で、経済状態も自分自身をも取り戻していくのだ。
浜田山に移った後には、一冊の小説をきっかけに、団鬼六の原稿を求め大手文芸誌からもオファーが殺到し、締め切りに追われる毎日となるのだったという。
この頃の鬼六の得意の台詞は、「新規参入の出版社は、可愛い子ちゃん編集者でなくては駄目。一発やらせてくれたら最優先で書く。」だったという。

著者は、鬼六の「花と蛇」に、他の猥褻小説とは一線をかくす潔癖さ、高貴さ、仄かな光を感じるという。それは希望の文字だけで語られた小説だからではないかというのだ。鬼六にいわせれば、「オナニー用のくだらない強姦エロ小説」だが、何度も絶版になりながらも、不死鳥のように蘇るこの希有な小説は、まさに鬼六の人生そのものといっていい。
子供のように天衣無縫で、あらゆることを赦す懐の深さを持つ。それが著者がみた団鬼六という人だ。
そして、その人生は波乱万丈で、吹き出してしまうほどに面白い。どんなことがあっても、それを撥ねのける明るさと周囲を楽しませてやろうというサービス精神があるのだ。
晩年、脳梗塞の後遺症で、「あ」が「ま」としか発音できなくなったとき、カラオケで「アンコ椿は恋の花」を熱唱したというエピソードには、私も声を出して笑ってしまった。

病に倒れ、死に際して鬼六は「死は観光や、サイトシーイングや」と言ったという。鬼六のような波瀾万丈な人生は、真似できないが、死に際しては鬼六のように、「サイトシーイングや」という境地に達したいものだと思う。

赦す人赦す人
(2012/11/30)
大崎 善生

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category: ノンフィクション・新書

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tag: 評伝  団鬼六  花と蛇 
2013/03/22 Fri. 23:48 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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白鳥泥棒 / エリザベス・コストヴァ 

本書の著者はあの『ヒストリアン』エリザベス・コストヴァである。
Léon Riesener Leda
もしもあなたが、旅先では必ず美術館を訪れるほど絵画が好きで、不幸にしてこの夏の旅行を断念せざるを得ないとしたら、この本はあなたにぴったりではないかと思う。
ソウイウ、ワタシモ、ドコニモイケマセン…

本書の主人公はワシントンの精神科医アンドリュー・マーロウだ。絵画を愛している彼は、もし時間があれば絵筆を握仕事りたいと思っていたが、実際は一筋で恋もせずな、気づかぬうちに50歳を超えてしまっている。
「画家のことなんか、おれにはわからないが、おまえなら理解できるんじゃないか?」そう言って友人の精神科医がマーロウに回してきたのは、高名な画家のロバート・オリヴァーだった。
ロバートは、ナショナルギャラリーに展示してある絵画「レダ」に襲いかかろうとしたのだという。彼は、精神疾患が疑われ病院に送られたのだ。
「なぜ、あなたはあの絵に襲いかかろうとしたんです?」と聞くマーロウに、彼はこういい、それ以外口を閉ざしてしまう。
「彼女のためにやったことだ。あれは愛する人のためにやったことだ。」
古い手紙の束をマーロウに渡した後は、ただとりつかれたかのように”黒い巻き毛のレディ”をひたすら描き続けるだけだった。

マーロウは、フランス語で描かれたその手紙の翻訳を依頼し、「レダ」を観に、ワシントンギャラリーに赴く。絵のモチーフになっている「レダ」はギリシア神話の登場人物で、パルタの王、テュンダレオスの妻だった。類いまれな美貌の持ち主で、その美しさは遠く離れた全能の神ゼウスの目を惹いてしまう。なんとかレダをものにしたいと考えたゼウスは、白鳥となってレダの気をひき思いを遂げるのだ。
ジルベール・トマの「レダ」は、よくあるソフトポルノ的なものでなく、生身の女性だった。巨大な白鳥が、今にもレダに襲いかかろうとしており、彼女は絶望と諦め、いや奔放さを表すポーズで、あおむけになっており本気で恐れおののいているのだ。

なぜ、ロバートはこの絵に襲いかかろうとしたのだろう?彼のいう愛する人とは誰のことだろう?なぜ、とりつかれたかのように、黒髪の巻き毛のレディを描き続けているのだろう?

物語は、現代と19世紀を行き来しつつ、ゆっくりと進行してゆく。

ロバートが大事にしていた古い手紙の束は、ベアトリス・ド・クレヴィルという19世紀に実在した女性と、その伯父にあたる男性との秘められた恋の書簡だったのだ。
マーロウは、ロバートの秘密を紐解くべく、ノースカロライナに住むロバートの元妻やニューヨークの元教え子の元を訪ねるてまわる。そしてアカプルコ、そしてパリへと旅をし、そこで一枚の絵にたどり着くのだが…

Elizabeth Kostova
コストヴァは、ゆっくりと慎重に物語を綴ってゆく。二つの時代を行きつ戻りつし、語り手を変え、視点を変えつつ、コストヴァは筆を重ねていくのだ。やがて、それは幾重もの層になり、そこからは、愛の物語が香り立ってくる。
ニューヨークの喧噪、アカプルコの目映い太陽、パリの石…コストヴァは読者を旅に誘い、その土地土地ですばらしい絵画を披露してくれる。ワシントンでは、種馬のように猛々しく舞い降りようとしている白鳥とそれにおののく「レダ」を、ノースカロライナのケイトの家では生命にあふれ笑う「黒髪の巻き毛のレディ」を。アカプルコのカイエ邸で出会うのは、モネに匹敵せんばかりの「最後の白鳥」であり、パリで最後の絵に出会う。その描写には感嘆するばかり。
そして、物語が終盤にさしかかると、冒頭のシーンがよみがえるのだ。

「絵にはどこか謎めいたところがないとうまくいかない」
そう、ロバートがいうように、愛の感情もまた本質的にミステリアスなものなのだ。
それにしても、マーロウをみてふと思ったのだが、何かを追いかけ、その謎を追求するということは、結局は自分自身を探求し、知ることなのかもしれない。


白鳥泥棒 上白鳥泥棒 上
(2012/12/07)
エリザベス・コストヴァ

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白鳥泥棒 下白鳥泥棒 下
(2012/12/07)
エリザベス・コストヴァ

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category: 文芸

thread: 最近読んだ本 - janre: 本・雑誌

tag: 絵画  印象派  白鳥とレダ  ミステリー   
2013/03/18 Mon. 18:56 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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王妃に別れをつげて / シャンタル・トマ 

Chantal Thomas2002年のフェミナ賞受賞作にして、シャンタル・トマのベストセラー小説。フェミナ賞は、フランスの最も権威ある文学賞の一つで、女性作家に贈られる賞である。
既に公開は終了しているが、『トスカ』や『イザベル・アジャーニの 惑い』のブノワ・ジャコーの監督で映画化もされている。現時点ではまだDVDは発売されていないが、レンタル開始になったら小説とみくらべてみても面白いかも。

この小説自体は、ハードカバーとしてかなり以前に出版されていたのだが、昨年の映画公開や、「ベルサイユのばら」40周年記念展の影響もあり、新書サイズのUブックス版として再版された。お値段も手頃になったので読んでみた。そう、「王妃」とはマリー・アントワネットのことである。

そうか、「ベルばら」ももう40年か...。
日本人にマリー・アントワネットが馴染みあるのは、ひとえに池田理代子さんの功績といってもいいだろう。池田さんは高校生の時にツワイクの『マリー・アントワネット』を読んで、なんて素敵な女性なんだろう!と感動したのだという。
ちなみに、当時の少女漫画に歴史ものというカテゴリーはなく、そんなのは受けないと周囲に反対されたが、池田さん自身は絶対に受ける!と確信していたらしい。
その確信は当たって、空前のブームとなったのは言うまでもない。
この「ベルサイユのばら」40周年記念展は、地方ではこれからで、横浜でもこの秋の開催予定である。

→ ベルばら展公式サイトはこちら


それはさておき、この物語は、王妃の朗読係補佐だったアガート・ シドニー・ラボルドの目からみたベルサイユ崩落の三日間を描いたものである。

今は1810年のウィーン。65歳を迎えたアガートは想いを巡らし懐かしんでいる。はるか昔、1789年7月14日からの運命の三日間を。
アンシャン・レジーム(16~18世紀の絶対王政体制)が崩壊してしまった日々のことを。
そして、忌まわしきナポレオンが「オーストリアの女性」と呼び、決してその名を口にしようとせず、このウィーンでも誰も口に出そうとしなくなった王妃のことを…

7月14日はいつもと変わらぬ一日のはずだった。王妃のために、マリヴォーを朗読し、宮殿内の動物園を散策したが、そこでラロッシュ大尉と会話をかわしたのだ。
「ネッケルの代わりをみつけるのは、大変でしょうな。」
「その話はもうやめましょう。」
ルイ16世の治世になり財政はいよいよ逼迫し、飢饉によって物価は上昇し民衆は飢えていたが、ベルサイユは全く外の世界とは切り離されていたのだ。節約を訴えた財相ネッケルは罷免されたが、ベルサイユは静かどころか平穏そのものだった。夕食は王にふさわしい豪華さで、ロワイヤルとしか形容のしようがないほどだったのだ。
しかし、15日の未明センセーショナルなニュースが拡がりはじめる。バスティーユが襲撃されたのだ。何者かがあえて王の眠りを妨げ、宮廷の様子は一変する。召使いたちは離反し、近衛兵は逃亡してしまった。ベルサイユに住まう貴族たちは
怒れる民衆から逃れようと、右往左往。
そして王妃は…

王妃に別れをつげて (白水Uブックス 180)王妃に別れをつげて (白水Uブックス 180)
(2012/11/13)
シャンタル トマ

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Marie Antoinetteこの小説の主人公アガートは、朗読係の補佐だが王妃は読書好きではなく、そのために王妃との間には適度な距離がある。近しくないからこそ、利害関係のないアガートは王妃に魅入られているともいえるし、周囲もよく見えているのだ。

この物語のクライマックスは、王妃がガブリエルに見捨てられるシーンだと思う。それもいともたやすく。
ガブリエル・ド・ポリニャックは、その美しい外見と穏やかな性格で王妃の寵愛を受けていた。第一子誕生後、王妃はプティ・トリアノン(王妃専用の離宮)に引きこもりがちになるが、そこに招かれたのが階級の高い貴族ではなく、ガブリエルのような王妃のお気に入りの友人だけだった。そのことが貴族内に不満をもたらし、王妃への誹謗中傷につながったと言われている。

ガブリエルが王妃を見捨て、宮殿を逃げ出すことが明らかになったその時、王権と王妃の運命は転覆するのだ。王妃は、なぐさめを与えてくれる友人を求めて、薄暗く人気のなくなった宮殿をさまよう。一人燭台を手にして。痛ましい想いでアガートはそれを回想している。
が、おそらくはその時王妃は「強く」もなるのだ。

翻訳者があとがきでも述べているように、アントワネットには異なる二つの顔がある。一つは、ファッションや流行、娯楽に興じる浪費家で軽薄な女の顔で、もう一つは、裁判にかけられ処刑されるまでの毅然とした強い女の顔だ。前者から後者へ変わるその瞬間が、カブリエルに捨てられ宮殿を彷徨うあのシーンなのである。その時、マリー・アントワネットは本当の王妃になったのではないかと思うのだ。
その数ヶ月前、王妃とガブリエルはじゃれあって取っ組みあいをし、劣勢になった王妃はガブリエルに「あなたのほうが強い」と言ったことがあった。しかし実は王妃のほうが強いのだ。
この日から後、王妃は平民たちから屈辱的な言葉を浴びせかけられる。王は処刑され、自らも裁判にかけられ断頭台の露と消えることになるのだが、彼女は最後まで毅然としていたのだ。そして、死に際しては「生き様、死に様が歴史に残るならば、立派に死のう」と言い残すのだ。

ベルサイユ最後の夜、アガートが王妃に最後の朗読をした時、王妃はアガートにこう命じた。
「ポリニャック公爵家の逃亡にあなたも加わるのです。そして彼女の服を着て、馬車の中で彼女の席に座って。ポリニャック夫人が命を奪われないないように。」

ガブリエルのドレスを着たアガートが、王妃に別れをつげたこの日、アンシャン・レジームは崩れ去る。その後のガブリエルはといえば、トマは彼女から涙を枯れさせず、失意とともにこの世を去らせている。
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category: 文芸

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tag: フランス  フェミナ賞  マリー・アントワネット  ベルサイユのばら 
2013/03/13 Wed. 18:32 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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